汪清県 (Wangqing)
汪清県(おうせい-けん)は中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州に位置する県. 県人民政府の所在地は汪清鎮.
1644年(順治元年)以降、清朝により入植が厳しく制限されていた汪清県域であるが1881年(光緒7年)に琿春副都統を設置し入植を解禁、1902年(光緒32年)には延吉庁(後に延吉府)の管轄地とされた. 1909年(宣統元年)、李氏朝鮮を保護国とし勢力を拡大する日本に対する牽制を目的に汪清県が設置された.
* 1921年6月 汪清県知事が朝鮮人会の解散を命令
* 1933年3月30日、日本共産党員である関東軍軽重隊員伊田助男は10万発の弾薬をトラックに積み小汪清抗日遊撃区に運んだのち 、遺書を残し自殺する. 「親愛なる遊撃隊の同志のみなさん わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました. あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります. わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています. しかし、わたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません. わたしはみずから命を絶つことにしました. わたしが運んできた十万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります. どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください. わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます. 神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って. 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 一九三三年三月三十日 伊田助男」
* 1936年 日本毛織株式会社の子会社「東洋パルプ株式会社」が汪清県春華村石峴で設立される
* 1945年9月30日 汪清県臨時政府が樹立
* 1945年11月4日 国民党汪清県党部が建立されるも17日後に消滅
* 1965年 延吉県の図們鎮と汪清県の石硯鎮を合わせ図們市設立
* 1965年5月 金承玉が汪清県委書記に就任. 文革期間4年間監禁される. 1975年12月より延吉県委書記
* 1968年11月 張徳江が汪清県羅子溝人民公社太平大隊へ下放
1644年(順治元年)以降、清朝により入植が厳しく制限されていた汪清県域であるが1881年(光緒7年)に琿春副都統を設置し入植を解禁、1902年(光緒32年)には延吉庁(後に延吉府)の管轄地とされた. 1909年(宣統元年)、李氏朝鮮を保護国とし勢力を拡大する日本に対する牽制を目的に汪清県が設置された.
* 1921年6月 汪清県知事が朝鮮人会の解散を命令
* 1933年3月30日、日本共産党員である関東軍軽重隊員伊田助男は10万発の弾薬をトラックに積み小汪清抗日遊撃区に運んだのち 、遺書を残し自殺する. 「親愛なる遊撃隊の同志のみなさん わたしは、あなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました. あなたがたは、愛国主義者であり、また国際主義者でもあります. わたしはあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています. しかし、わたしはファシストのけだものたちに取り囲まれていて、あなた方のところへ行くことができません. わたしはみずから命を絶つことにしました. わたしが運んできた十万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります. どうかみなさん、日本のファシストをねらいうちしてください. わたしの身は死のうとも、革命の精神は生き続けます. 神聖な共産主義の事業の一日もはやい成功を祈って. 関東軍間島日本輜重隊 日本共産党員 一九三三年三月三十日 伊田助男」
* 1936年 日本毛織株式会社の子会社「東洋パルプ株式会社」が汪清県春華村石峴で設立される
* 1945年9月30日 汪清県臨時政府が樹立
* 1945年11月4日 国民党汪清県党部が建立されるも17日後に消滅
* 1965年 延吉県の図們鎮と汪清県の石硯鎮を合わせ図們市設立
* 1965年5月 金承玉が汪清県委書記に就任. 文革期間4年間監禁される. 1975年12月より延吉県委書記
* 1968年11月 張徳江が汪清県羅子溝人民公社太平大隊へ下放